【両腕がない】まこだぉのQOL向上を考えるブログ☆★

特殊な自分だからこそできることを発信していきます!!

【障害は個性】じゃない。綺麗事で世界は変わりません。

【障害は個性】という言葉、最近よく聞きますよね。

みなさんはどう思いますか?本当にそうだと思いますか?

 

あくまでも僕の一意見になりますが、

【障害は個性】という考え方、大嫌いです。

綺麗事を言うなよ、現実的に考えろよ、と。

 

もちろん色んな考え方があると思いますし、僕と考え方が異なる方にとっては「それは違うでしょ」と感じる部分も多々あるかと思います。その点は、あらかじめご了承ください。

 

ではなぜ僕はこのような記事を書くのか。

それは単純に、みなさんに「障害は個性だ」などと安易に言ってほしくないからです。この言葉に嫌気が差す障害のある方がたくさんいらっしゃると思うからです。そして、そういった綺麗事が蔓延する世の中になってほしくないからです。

 

以下、僕がこう考える理由や詳細について述べていきたいと思います。

なお、実は当記事は以前に一度書いて投稿したものの、訳あって削除した記事のリライト版なのでご注意ください。

細かい規則やどこぞの評価を気にし、自分らしさを消してまで記事を書くのはもうまっぴらごめんなので、今後は以前のように好き放題、自分が書きたいことを自分が言いたい言葉を使って書いていきますね。

 

今日ここに「真・まこだぉ」が復活したことを宣言します!笑

 

 

不便があるからこその障害

「障害があって良かった」って本気?

僕はこれまで、テレビや新聞、SNSで、障害のある方本人が

「障害があってよかった」

「生まれ変わってもまた自分に生まれたい」

とお話しているのを見聞きしたことが度々あります。

そのたびに僕は

「本気でそう思ってるの?」

「表向きだとしても何でそう言えるの?」

と感じてしまいます(僕は、ですよ!)。

 

僕はなにも「障害」にまつわるすべてを否定するつもりはありません。すべて否定してしまうと自分自身すらも否定しかねないからです。

ですが、僕は

障害なんてない方が良いに決まってる

と考えていますし、そもそも生まれ変わりたいともまったく思いませんが、万が一生まれ変わることがあるならば「健康な体が欲しい」と切に思います。

 

「健常」への憧れーー「普通」が一番

みなさんが日常、普通かつ何気なくできていることを、僕も何の苦労も工夫もなく、普通にしてみたいなあと常々思います。

 

自分のことはすべて自分でして、どこか行きたいと思えばそのまま着替えて家を出て、気の向くままに歩いて、一人で買い物をしつつ食べ歩きとかもして。

僕と同じく野球好きの友達と集まって草野球をしたり、トイレのことや人混みのことなんて気にせずテーマパークや旅行に行ったり。

今の僕の身体では難しいこのどれもを、一日常として過ごすことができたなら、すごく幸せで楽しいんだろうなぁと、よく考えてしまいます。

 

もちろん障害を持って生まれてきたからこそ、これまでの人生があり、多くの出会いがあり、多くの経験をし、今の自分が形成されている。これは揺るぎない事実だと思います。

でも、もし障害がなければ、自分はどんな人間で、どんな人生を送っていたんだろう。

こう考えずにはいられない自分がいるのもこれまた事実です。

 

別にネガティブに考えているわけではないですよ!

恐らくみなさんも一度は考えたことがあるはずです。

「もし自分が〇〇だったら、、、」と。

それと同じ感覚で考えていることだと思います。

とにかく僕は「障害のない自分」に憧れるんです。だって自分でできることが増えるし、外に出て嫌な目で見られることも減ると思うし、生きていく上で心身ともに重荷が減るだろうから。

 

どこまでいってもやっぱり「障害そのものはマイナスだ」という考えは拭いきれないんです。

 

 

障害者の気持ち、わかりますか?

住む世界の違い

僕には両腕がありません。さらに歩くことさえままなりません。だからこそつらい思いをしたり、壁にぶち当たったりした経験は何度もありました。おそらく身体が普通であればしなかったであろう、特殊な経験を。

 

でも、この考えを話すと、たまに

「いやそんなことはない!」

「それは君の考え方、捉え方の問題だよ!」

真正面から否定されることがあります。ですがそのたびに

「じゃああなたに障害はあるのですか?」

「あなたも両腕がないんですか?」

と聞きたくなる。

嫌な奴であることは痛いほどわかってますよ笑。でもね、

「腕はあった方が良いのか、それとも無い方が良いのか」

これで後者だと答える人は、それこそ何らかの問題がある人ですよ。

 

本来であれば「腕はあるはず」のものであり、この世界自体が「腕はあるもの」という前提で成り立っていますその世界で僕が生きやすいわけがない。これは絶対の事実だと思うんですよね。

「腕がないことは悪いことじゃない!」

と言う人は、僕も慰めるつもりで言ってくれているんでしょうけど、僕の現実を直視しようとしない、ある意味で浅はかな考えの持ち主だなぁと感じてしまいます。少なくとも僕は障害で苦しんでいる人を相手に「あなたの苦しさは障害があるからじゃないよ」なんて適当なこと、口が裂けても言えません

住む世界が違えば、経験する出来事はもちろんのこと、世界の見え方や物事の感じ方だって当然違ってきます。程度の違う人間が、何もわかっていないまま相手のことをとやかく述べるのはお門違いです。「自分も同じ状態になって、同じ経験や苦しみを味わってから言ってみろよ」と僕なら思います

腕のない幼少期の頃の自分の写真

 

障害への認識と理解

もちろんこれは僕に限った話ではなく、障害のない人が障害のある人に対して

「障害があってもいいじゃないか」

と言うのはお門違いであると思います。いや、障害のある人同士であっても、です。すべてが同じ条件なはずがないから。少なくとも、軽はずみな発言をする前によく考えてみてほしい

やっぱり、言う側が当事者(障害のある人)であるのかそうでないのかによって、言われた側は納得できないことが多々あります。言う側が当事者であっても、障害の種類や程度、その人の置かれている環境によっては「そう言うあなたは〇〇なんだけどな…」と腑に落ちないことも往々にしてあります。

いずれにせよ、

「障害自体は悪」

なんですよね、やっぱり。僕の中では。

障害があるより無い方が良い。生きにくいより生きやすい方が良い。生きる上であまり苦労を感じたことのない人にはピンと来ないかもしれませんが…。

 

 

障害は個性?

そもそも「個性」って何?

最初にも言いましたが、現代の風潮で

「障害も個性の一つだ」

なんておっしゃる方がたくさんいます。が、「その考え方ってどうなの?」と思うんです。

個性のせいで人の何倍も苦労しなければならないのか?

と。そして

「障害があくまで個性にとどまる次元のものであるなら、あなたは障害者になることに抵抗はないのですか?」

と問いたい。

 

生きていく上で何かしら壁や障害があって、それを乗り越えるたびに人は成長する。そう言い切って問題ないと思います。

けれども、だからと言って「自分自身に障害があれば成長できる」とは必ずしも言い切れません。成長する機会さえ奪われている人がいるのもまた事実ですから。

「個性」=「他人とは違う自分だけのオリジナリティ」だと考えるならば、わざわざ他の一般の人よりも苦労しなければならない「障害」という「個性」なんて無い方が良くないですか

僕からすると、軽はずみに

「障害はあなたの個性だ」

なんて言われたくないんです。

「その個性のために、自分がどれほどの経験をしてきて、これからもどれだけの苦労と努力を積み重ねていかなければいけないんだ」

と考えてしまうんです。

でも、何もこれは僕に限った話ではなく、僕と同じように考える障害をお持ちの方はたくさんいると思います。

心の中でどう思うかはみなさんの自由ですが、それを言葉に出す際は、相手を配慮した上で話してほしいなと思います。

 

乙武さんいわく「障害は特徴」

まず前もってお話しておきますが、僕は諸々の理由で乙武さんが好きではありません。ただ素直に「凄い人やなぁ」とは思いますけどね、色んな意味で。

そんな乙武さん、珍しく僕が「ごもっとも」と思えるお話をされている記事を見つけたので、以下に載せておきます。

www.challengers.tv

上記サイトで乙武さんは対談形式でお話をされていますが、ほんとにおっしゃる通りだと思います。

 

まず「個性」の定義についてですが、この国では「個性」という言葉をマイナスの意味で使用することはほとんどありません

稀に人の悪い部分を「個性的」と呼ぶこともありますが、それはその人の悪い部分をそのまま「あの人は〇〇なところが良くない」とストレートに言うことを避けるために、「あの人って〇〇で個性的だよね」とある意味「皮肉」を込めて使っていることが多いように思います。

この場合もやはり「個性」という言葉を婉曲してというか、悪い部分を無理やり強がって良く見せようという意思が働いていますよね。

「障害」は人と異なる部分を指していることは事実なのですから、それをあえて「個性」と呼ばなくても、「特徴」なり「人と異なっている点」なり何とでも呼びようがあるはずです。

 

障害に対する問題意識の点も然りです。「障害」を美化してしまうと、あるいは綺麗事として片づけてしまうと、障害の本質を見つめようとしなくなり、解決されるべき問題が見過ごされてしまう危険があります

 

結局のところ、何でもかんでも良いように捉えようとしちゃだめだということです。

 

「サイコパス」も個性なの?

例えばの話ですよ。例えばの話、障害は個性であると考える人は、

サイコパスも個性

だと考えるのでしょうか?

極論で話をしていますが、筋道の違うことは話していません。

「人と違うことが個性」であると仮定し、その考えに基づいて「障害も個性」という捉え方をするのであれば、サイコパスだって立派な個性になってしまいますよ。だって明らかに「普通じゃない」んですから。

でもね、普通に考えられる方なら当然感じることだと思うんですけど、そんなわけないんですよ。

これまたわかりやすいように極論を述べますが、正常な正義感や倫理観が著しく欠如した反社会的人格の持ち主で、最悪の場合人の命を奪ってしまうような人間。

普通ならあり得ないというか、誰もそんなことしようとしないですよね。でもそれを平気でしてしまう、明らかに特殊な人間。

そんな人間のそんな性質でさえも「個性」になってしまうんですか?

大罪を犯したにもかかわらず「精神の異常」を理由に無罪になってしまったケースも多々ありますよね。そんな「精神の異常」でさえも「個性」になるんですか?

僕個人の考え方としては、「障害は個性」という考え方はこのように考えるのと同じくらい「普通じゃない考え方」にしか思えないんです。

何でもかんでも良いように捉えることは時に危険性を伴うと思います。

 

障害は自分だけのものじゃない

これまでは「人の障害を個性と呼ぶことに違和感を覚える」というテーマで話を進めてきましたが、

「障害者本人が自らの障害を個性だと主張する」

のも僕からすれば聞いていてあまり好ましいものではありません。もちろん、本人が心の中でそう考える分に関しては何も言いませんが。

 

百歩譲って、僕が個性的だと言われるのは構いません。もう慣れましたから。

ただ、その「個性」のために家族(母親)がこれまでどれだけ大変な思いをしてきたか

「障害当事者」だけではなく、こうした周りの人のことも考えると、「障害は個性だ」なんてうかつに言うべきことではないと思います。それはたとえ、自分が当事者であっても、です。

 

本人は「障害があって良かった」と思うこともあるかもしれません。そう思えるのはある意味幸せなこと、強みであるかもしれません。

ですがきっと、その障害は自分だけのものではないはずです。本人がそう思えるようになるまで、周りの方がどれだけ大変な思いをしてきたか家族がどれだけ我が身を削って障害のあるあなたを支えてきたのか

 

人間、自分自身の苦労はある程度耐えられる生き物だと思います。実際に僕自身も、これまで確かに色んな経験をしてきましたが、今では「どれも大したことなかったな( ̄▽ ̄)」と思えることばかりです。

ですが、その苦労は自分と同時に、家族や周りの支援者も経験しているわけです。たとえ自分自身が良くても、自分を応援してくれる、自分を支えてくれる大事な人たちに、僕なら極力つらい思いをさせたくありません。もし生まれ変わったとしたら、もう自分の障害のために悩ませるなんて絶対にさせたくありません。

たとえ周りの方が自分につらい面を見せなくても、きっと家族や友人、恋人、先生方などは不安でいっぱいだったと思います。そんな不安のなか、精一杯自分を信じて支えてきてくれたわけです。だからこそ、僕なら

「障害があってよかった」

「また(障害のある)自分に生まれたい」

なんて絶対に思わないし言えないんです。

大事な人たちのことを考えるとそんな自分のことしか考えていないような発言は口が裂けても言えません

僕はもし生まれ変わらないといけないなら、今度は全身全霊を込めて大事な人たちを支える側になりたい。強く、強くそう思います。

だからこそ、障害当事者が

「障害は自分の個性」

などと言っているのを見ると嫌な気分になるんです。周りのことをしっかり考えた上でそのような発言をしているのかな、と少し引っかかるんです。

この一言で周りの誰かが傷つくかもしれない

障害者本人ほど、そう考えておくべきだと僕は思います

 

 

障害そのものはネガティヴなもの

ネガティブをポジティブの根源に

ここまでちょっとネガティブに書きすぎてますね。笑

が、やっぱり僕の想いは変わりません。

「障害は個性」ではないです。

何かをする上で自らの妨げとなるもの、それが障害です。本来であればできることができない、あるいは特別無理をしなくてもできることが苦手だ、そういったネガティブな性質が障害だと思います。それが「障害」という言葉が本来持っている意味です。

 

僕はなにも「障害は個性だ」と美化して言わなくても、綺麗事として捉えなくても、本来のあり方、考え方で捉えればいいじゃないかと思います。だって、障害自体はネガティブなものであったとしても、その持ち主がネガティブな存在であるという考え方には直結しないですから。

上でも述べたように、障害があって初めて得られることだってたくさんあります。ネガティブ要素からポジティブ要素が生まれることなんて無限大にあると僕は思うんです。

ネガティブなものをネガティブなままにしておかない。ポジティブなものを生み出す根源にする。大事なのはここなんです。

だからこそ、障害を綺麗事にするんじゃなくて、障害自体は、障害そのものは「悪いものは悪い」と捉えるある種の勇気が大事なんだと思います。美化すること、綺麗事からは有益なものなんて何も生まれません。生まれるのは空虚なものしかないはずです。現実から目を背けてはならないんです。

 

最後に

最近ではこの障害に限らず、美化されたものや綺麗事がそこら中にはびこっていると感じます。物事を考える、捉えるという点で大事なものが徐々に欠けていっている気がしてなりません。

世の中綺麗事だけでは回りません。いかに汚い部分を、苦しい部分を直視して打開策を講じていくかが重要なはずです。「腫れ物に触る」ことが大事なんです。

 

その中でも、今回は「障害のある人」のプロである僕が(笑)、どうしても物申したいテーマについてお話しました。

もちろん色んな考え方があると思います。僕の考え方はおかしいと思われる方もたくさんいらっしゃるでしょう。でも、「現実を直視すること」と「軽はずみに言う前に考え直してみること」は絶対に必要なことだと思います。

 

「障害は個性だ」

この言葉を使う前に、今一度改めて物事を見つめ直してみませんか?