【両腕がない】まこだぉのQOL向上を考えるブログ☆★

特殊な自分だからこそできることを発信していきます!!

障害者だから努力する。負けず嫌いと根性で生きてきた男です。

前回は「障害は個性じゃない」という障害に対する僕の考え方を書きました。

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障害自体はネガティブなもの」と、人によっては毛嫌いされるであろう書き方をしています。

今回はそこから一点、僕が「障害から得ることができた」と考えるポジティブな一面について書いていきたいと思います(と言いつつ障害は僕に試練ばかり与えてきますが…笑)。

なお、一度に書ききるとあまりに長文になってしまいそうなので、前半と後半の二部に分けて書いていきたいと思います。

また、当記事も以前に一度投稿し削除したものをリライトした記事です。

今後こういったリライト記事が多くなるかと思います。予めご了承ください。

 

 

負けず嫌いの鬼

実はかなりの重度障害者

医師曰く。

僕の障害は「身体障害」の中でも「特A」ランクの障害らしいです。

3年ほど前に主治医からその事実を聞かされたのですが、僕自身そんなこと考えたこともなかったので、

「へぇー、おれの障害って意外と重いんやな( ̄▽ ̄)」

と驚いたことを覚えています。

と言うのも、僕は元々「障害の世界」とはほぼほぼ無縁の世界で過ごしてきたからでしょう。障害のある方との接点もほとんどないんです(今に至ってはもはや0)。

 

健常者社会で生きるということ

実は、僕は幼い頃から順に、保育園から大学、そして現在の社会人と、いわゆる「健常」「一般」社会の中で過ごしてきました。

小学校の中に支援学級があったのはあったのですが、1週間のうち2時間程度その学級に顔を出していたくらいで、そこで学んだり生活したりすることはほぼありませんでした(詳細は以下の記事「僕が通っていた小学校について」をご覧ください)。

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なので、こう見えて僕は「障害の世界」についてあまり詳しくないんです。

「一般」の中で良かれ悪しかれ荒波にもまれて生きてきたわけですが、それは同時に「強さが求められる」人生でもあったということです。

弱みを見せると生きていけなかったんです。色んな意味で人より強くないといけない。なので昔から大の負けず嫌いですし、気も強い。そりゃあもう自分でもうっとうしいほどに…笑

 

「手無し人間」と呼ばれた幼少期

これは僕が保育園児だった頃の話です。

ちなみにこのお話については、以下のラジオ形式の動画でより詳細に、より赤裸々にお話しています。良ければご視聴ください。

youtu.be

僕の年長の年に入園したのですが、同じ組の子どもたちは僕に理解を示してくれており、「クラスみんな友達」といった具合に毎日仲よく遊んでいました。先生や親御さん方がみんなにしっかりお話してくれていたんだと思います。

 

ですが…年下のガキんちょがまぁうっとうしいこと。笑

僕があまり走れないことを知っていたんでしょう。少し離れたところから僕に向かって、

「おい手無し人間~!」

だの

「バケモノ~!」

だの言うてくるわけですよ。しかも集団で。めっちゃタチ悪いでしょ?笑

もうね、幼いながらに腹が立っちゃって僕はブチ切れるわけです。

でもどんなに腹が立っても、当時5~6歳の僕には言い返す言葉が見つからない。ぶん殴ってやりたくても追いかけようとすると逃げられる。言われたその時は何もできないんですよね、悔しいけど。

 

ですが僕は黙ってやられる人間ではありません。

「何とかしてやり返せる方法はないか…」

そう考えた僕はパッと閃いたわけです。

そう、「お昼寝」の時間を利用することを。笑

ガキんちょどもは悪口を言うだけ言うと満足してスヤスヤ寝とるわけです。で、僕はその隙を狙う。

先生たちの目を盗んでこっそり奴らの組に侵入し、一番悪口を言ってきた奴を見つけて…

あとはマウントポジションからのボコボコです。笑

子どもの「1~2歳差」ってめっちゃくちゃ大きいですよね。体格こそ当時から僕は足が悪かったので小さかったのですが、力の差となると明確な差があるんです。一度馬乗りになればこっちのもんです。

もう一回言うてみぃゴルァ(#゚Д゚)!

とひたすら鉄拳を喰らわすわけです(ガラの悪さは当時から変わらずです泣)。

そうするとガキんちょは「ごめんなさいぃぃ~!」と泣き叫ぶ。

で、先生が来る。

で、なぜか僕だけがこっぴどく叱られる

今思い返しても理不尽や。。。笑

まぁでもそうこうしているうちに悪口を言ってくる子どもは一人もいなくなりました。笑

いつの時代も力による支配は効果抜群です←

 

負けず嫌いが長所に

ただ、今になって思うことは、悪口を言われて「しゅん」としてしまう人間でなく、「お前ら覚えとけよ」と思う性格で良かったなぁということです。

勝ち気で負けず嫌いでなかったら、みんなと同じ世界では生きていけなかったんだろうなぁと思います。

ちなみに小学校低学年の時も同じようなことがしばしばありました。結果だけ言うと、最後は僕が怒られるというあの理不尽なパターンです。

でもその甲斐もあってか、これまでの人生で一度も「いじめ」にあったことがありません

環境に恵まれていたのももちろんあると思いますが、自分の性格には感謝しています。

もしかすると、この当時からすでに「自己防衛」の本能が自然と働いていたのかもしれませんね。

「強くないといけない」「負けちゃいけない」という本能が。

負けず嫌いって短所にもなりえるものだと思うのですが、僕の場合は長所として働いたというか、生きていくための必須条件だったんだと思います。

負けず嫌いだった小学生のまこだぉの写真

 

 

障害と努力

障害があるからこそ努力が必要

そうして歳を重ねていくうちに、僕は何かに取り組むたびに「障害があるのに努力するってえらいねぇ」と言われるようになりました。

みなさんはどのようにお考えになるでしょうか。

「障害があるのに努力するって凄い」と感じられますか?

僕にとってはむしろ逆なんです。

「障害があるのに努力する」

のではなく、

「障害があるから努力する」

んです。

だって、努力しないと人に勝てないから。生きていくことがむしろ大変になるから。

努力することは、僕が生きていく上で「当たり前」のことなんです。それ以上でも以下でもないことなんです。

 

「できること」は一番を目指す

僕はこの身体の性質上、俗に「健常者」と言われる方に比べると、「できることの範囲」はごくわずかなものだと思います。

でもだからこそ、この「できることの範囲」内では誰にも負けたくない、負けちゃいけないとの思いで生きてきました。

そしてそれは、ただ単に「自分がどれだけ頑張ったか」ではなく、どれだけ「目に見える形としてみんなに示せるか」が重要だと考えていました。

「自己完結」するだけではだめなんです。

ただでさえ「腕がないんだから何もできないんだろう」と思われがちな上に、たとえ自分がどれだけ努力しても、形として相手に示せなければ「やっぱりあいつは何もできない」となってしまう

相手が僕をどう捉えているか。「目は口程に物を言う」とはよく言ったもので、本当にその通りです。相手の目を見れば一発でわかる。そういう人たちを見返したかったんですね。

「〇〇では勝てないしそもそもできないけど、△△だったらお前らには絶対負けん」という事実がとにかくほしかった。

要するに見栄っ張りなんですよね。ただの負けず嫌いなだけではなくて。笑

 

でも

「人に尊敬された方が生きやすい」

というのは子どもの時から感じていたことでした(今でもそれは事実だと思います)。

なので

「何とか尊敬されるように頑張らねば」

という思いが人一倍ありました。

そしてそれは、目に見える形で人に示すと得られやすい。

だからこそ、「できること」の目標は常に一番、あるいは「自分にしかできない形で成し遂げる」ことだったんです。

まぁ「だった」という過去形ではなく今でもこの想いは変わらないんですけどね。

 

過去の栄光を自慢します。笑

ここでちょっと自慢させてください。笑

と言うのも、「努力努力」と言うのは簡単です。先ほどから書いているように「人に見える形」になっていなければ「努力」という言葉の説得力は欠けてしまうので、うざいのは承知ですが書かせてもらいます。

以下、これまで僕が「示してきた」ことの一例です。

  • 書道の作品が評価され(作品のみ)中国へ渡る(小学生)
  • 絵画作品が市役所に貼りだされる(小学生・中学生)
  • 英語の暗唱大会、市内で優勝(中学生)
  • 「もう十分」と感じて勉強をやめた3年春までテストは常に学年1位(高校生)
  • ちなみに数学が学年2位で、それ以外は全科目1位(高校生)
  • 評定平均は5(高校生)
  • 読書感想文コンクール大阪府金賞(高校生)
  • 左腕一本で後転倒立(高校生)
  • 反復横跳び20秒間で84回(別に書くことではないか笑)(高校生)
  • 学内に障害学生支援団体設立(大学生)

みなさんの鼻につくのは百も承知(笑)で書きましたが、「何もできない」と思われないために、また「自分自身の存在意義」を示すために結果に残してきた事柄の抜粋です。

現に今も

「みんなが思ってるほど何もできないわけじゃないし、できることはそれなりにできるんやで!」

ということを証明したくて書いてます。

これくらいしないと、なかなかわかってもらえにくいので。

特に「言葉」を通してしか相手に伝えられないこのブログのようなネット世界では。

 

 

障害が僕に与えた「努力する才能」

努力は弱さを隠す一つのツール

僕にとっては人に形として、結果として示せてこその努力だと書いてきましたが、結局のところ「何もできない」と思われるのを極度に恐れているんですよね。

そう思われるとやっぱり「生きづらい」と感じてしまうからかなぁ。

あるいは「社会的弱者」と思われるのが嫌だからでしょうか。

諸々理由は考えられますが、たぶん複雑すぎて自分でもよくわからない点の一つです。笑

ただそんな中でも言えることは、自分にとっての「努力」とは「生きていくために必要不可欠なもの」というだけではなくて、「自分の弱さを隠すためのツールの一つ」でもあるということです。

僕が強いから努力するというわけでは決してありません。

強さと弱さが入り混じったものが「僕にとっての努力」であり、そして僕という人間なのだと思います。

 

障害から得られたもの

そう考えると、障害は僕に「努力する才能」だけは与えてくれたみたいです。

これはまた後日別の記事で言及したいと思いますが、僕と同じように障害があっても努力しようとしない人もたくさんいます。そもそも努力できない人、努力のしようがない人だっています。

そういった点では、たとえ前向きであれ後ろ向きであれ、人に負けたくない、何もできないと思われたくないから努力するというのは障害があるからこそなのかなと思います。

もちろん障害なんて無い方がいいですし、普通の姿をしている自分を妄想したことだって数えきれないくらいありますが、普通だったらだったで今と同じような努力ができているかどうかと考えると、そこまで自信がありません。笑

そこまでの強さを求められる立場になかったら頑張る必要がないと思う人間だったかもしれませんしね。

 

良し悪しの基準や判断や人や立場によってもちろん異なると思いますが、僕にとっては「負けず嫌いである」「根性がある」「努力できる」といった要素は生きていく上でとても大事な部分だと思っていますから、これらの要素を最低限でも備えている自分は、この点においてだけは「障害の賜物」だなと感じます。

それは同時に「生きづらさ」を助長する要素でもあるんですけどね…。

のほほんと生きられるならその方が楽に決まっていますから。

でも僕はそういった生き方が許せない。その理由も「自分に障害があるから」です。どれだけ障害から逃れたいと思ってもコイツは僕を開放してくれないんです。笑

 

ではなぜ、僕は障害があるから「楽に生きようとしない」のか。あえて「生きにくい生き方」を選ぶのか。この点については続編の記事でお話しようと思います。

続編の内容も結局「努力」「負けず嫌い」がキーワードになってくるのですが、詳細は次回のお楽しみということで…笑

 

 

それでは今回はいったんこの辺で。

ご一読ありがとうございました(`・ω・´)!