いよいよ新時代に突入しましたね。
新元号はずばり
「令和」
新しさや斬新さが感じられる、なんとも「ナウい」言葉ですね。笑
そんな中、今回はこの「令和」の出典元とされている『万葉集』について、またこの『万葉集』と新元号である「令和」との関わりについて。
元国語研究員である僕が簡単にご説明していきたいと思います('ω')
↑↑ちなみにこの字、僕の直筆です。
両腕のない僕にしてはわりと上手でしょ( ̄▽ ̄)笑
『万葉集』について
そもそも『万葉集』について、みなさんはどのくらいご存知でしょうか。
中学高校だけでなく小学校でも習うので、誰しも名前自体は知っていると思います。
が、「いつの時代」の「どういった内容」の物なのかを具体的に説明できる方はそんなに多くはないのではないでしょうか。
そこで、まずは簡単に『万葉集』の概要を書いていきますね^^
現存する最古の歌集
まずはとにかくこのことに尽きるでしょう。
『万葉集』は奈良時代(710~794)後期の759年以後に成立したとされる、現存する最古の歌集なんです。
歌集とはその名の通り「和歌を集めた本」のことで、他の有名な和歌集に『古今和歌集』や『拾遺和歌集』、『山家集』に『新古今和歌集』などが挙げられますが、こういった歌集の中で現存する最も古い歌集が『万葉集』なんですよ。
ちなみにこの奈良時代。「平城京」に都があった時代を表していますが、一つ後の平安時代を「794(ナクヨ)ウグイス平安京」と覚えるのに対し、「710(ナント)綺麗な平城京」と覚えると覚えやすいですよ(^^)/
編者は大伴家持?
実はこの万葉集、当時それまでに先行していたいくつかの歌集から歌を集めて成立したと言われています。
したがって、ある程度長い年月にわたり、幾人かの編集を経て完成したわけですが、最終的には大伴家持(おおとものやかもち)が現在の形に編集したと言われています。
代表的歌人
上で「ある程度長い年月」と書きましたが、具体的には約130年という年月であり、発生期から衰退期までの4期に大きく分類されます。
以下、第1期~第4期の代表歌人です。
◆第1期
・舒明天皇 ・有間皇子 ・額田王
◆第2期
・柿本人麻呂 ・高市黒人
◆第3期
・山部赤人 ・山上憶良 ・大伴旅人
◆第4期
・大伴家持 ・橘諸兄
赤字で書いた歌人は、僕が特に有名だと考える歌人です。
中でも山上憶良(やまのうえのおくら)は、彼の名前は知らなくても、彼の作品の『貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)』をご存知の方は多いのではないでしょうか。
構成と内容
万葉集は全20巻、およそ4500首の歌から成り立っており、部立て(=部類・部門別の意)は相聞、挽歌、雑歌の3部が主なものとなっています。
ちなみにこの3部はそれぞれ
- 相聞・・・恋愛の歌が最も多いが、親子や兄弟間の贈答歌も含まれる
- 挽歌・・・人の死を悲しむ歌を指す
- 雑歌・・・相聞、挽歌以外の歌で、行幸や旅歌、宴会の場での歌が多い
を表しています。
表記面では、当時はまだ「仮名文字」が存在していなかったため、日本語の音韻を漢字の音訓を借用して表す「万葉仮名」が多く用いられています。
歌風は「素朴だが雄大」であると言われており、「力強さ・勇ましさ」が一つのキーワードとなっています。この勇ましさを、国学者であり、あの本居宣長にも大きな影響を与えた賀茂真淵は「ますらをぶり」と称しており、万葉集の大きな特徴と言うことができるでしょう。
歌体としては「短歌(五七五七七)」が多いものの、他にも「長歌(五七、五七、‥五七七)」や「旋頭歌(五七七、五七七)」、「仏足石歌体(五七五七七、七)」なども含まれています。
また、先ほど代表歌人を挙げましたが、他にも歌の作者は天皇や貴族、僧侶、さらには作者不明とされる農民にいたるまで幅広い階層にわたっています。
中には「防人歌」(=九州の防備についた庶民やその家族の歌)や「東歌」(=東国民衆の生活を表す民謡風の歌)も記載されており、当時の庶民の生活が垣間見える資料としても価値があるものと言われています。
万葉集と令和の関係
万葉集に登場する「令和」
さて、この『万葉集』の中に、新元号である「令和」の典拠があることは多くの方がすでにご存知だと思います。
念のため簡単にご紹介だけしておくと、『万葉集』は「巻五、梅花の歌 三十二首 并せて序」にある一文
「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」
の中に登場する「令」と「和」ですね。これらが合わさって「令和」となったというわけです。
梅花の歌(一文)の現代語訳
一応上の一文を、僕なりにめちゃくちゃ大雑把かつ簡単に関西弁で現代語訳しておくと
「初春の良い月やなぁ。空気も良いし風も和やかやし。梅はべっぴんさんが鏡の前で白粉でお化粧してるみたいに綺麗に咲いてるし、蘭は身にまとった衣装が漂わせるかのようにいい匂いを香らせてるわ」
くらいでしょうか。
ほんとに大雑把ですみません。笑
梅花の歌の作者
ちなみにこの梅花の歌は、上の代表歌人でも挙げた大伴旅人が催した「梅花の宴」という宴会の場で詠まれた歌だとされています。そして「令和」の典拠となった肝心の「序文」の作者は、これまた上で少し触れた山上憶良や宴に参加していた旅人たちであると言われています。
「令和」の言葉に込められた意味
でもまぁほんとに、安倍首相のお話からもうかがえましたが、
「平和と美しさ」という「日本らしさ」溢れる時代になってほしいという願いを込めて選ばれた言葉だと思います。
現にこれまでの元号の出典はすべて漢籍だったようですが、今回の「令和」という元号は史上初めて日本の国書を出典としているようなんです。
(ただしここにも諸説あるみたいなので、断言するのは現状差し控えます)
目まぐるしく変化してゆく昨今の世界情勢において、グローバルな要素を取り入れつつも、いかに「日本らしさ」を後世に残していくことができるのか。この点が「令和」という新しい時代の一つのキーワードになってきそうです。
そしてこういった「日本らしさ」を忘れないためにも、『万葉集』をはじめとする日本文学に触れることが重要になってくると思います。
「古文なんて勉強しても将来何の役にも立たないし…」と考えているみなさん!笑
古文は決して「役に立たない」ものでもなければ「無駄なもの」でもありませんよ。
「日本人が日本人として生きていくヒント」がそこにはたくさん隠されていますから。
万葉の世界に触れてみませんか?
全国にあるゆかりの地
勉強で古文が必要な中学生や高校生ならまだしも、大人の方にとっては「いきなり万葉集を読むっていうのもなぁ…」と思われるかもしれません。
そんな時は、文章に触れるよりもまず「万葉集ゆかりの地」に触れてみるのもありだと思います。
『万葉集』は詠み手の階層が幅広いだけでなく、東は東国(現関東地方など)から西は九州まで、幅広い地域にわたってゆかりがあるんですよ。
実際に昨夜テレビ番組で見かけたのですが、福岡県にある坂本八幡宮という神社は、先ほど説明した、「梅花の宴」を催した大伴旅人の邸宅があったとされる場所のようで、最近では参拝者の数が大変増えているそうです。昨夜も「令和」を祝うために多くの方が集まっていましたね。
正直ミーハーと言ってしまえばミーハーなのでしょうが(笑)、それでもこういった機会に万葉の世界に触れる、歴史に触れるのは大変意義があることだと思います。
でもやっぱり万葉の中心は奈良県!
それでもやはり、万葉の中心であった大和(現奈良県)には、今でも当時の世界を感じられる場所がたくさんあります。
その一例として、吉野川や三笠山、三輪山に大和三山(=畝傍山・耳成山・香久山の総称)。これらの川や山は実際に数多くの歌に詠まれている場所であり、一度はその地名を耳にしたことがあるという方もたくさんいらっしゃるのではないかと思います。
こういった場所に赴き、実際に風景を眺めることで当時の歌人たちに思いを馳せるのも楽しみ方の一つですよね。
また、歌体でご紹介した「仏足石歌」が実際に刻まれている「仏足石歌碑」も、この奈良にある世界遺産「薬師寺」に保管されています。
自然だけではなく、こういった人為的な物に触れるのもロマンがあって楽しいですよ!
最後に:温故知新の心を持とう
ここまで『万葉集』や「令和」との関係性、またゆかりの地について僕が知っている限りのことを書いてきました。
以前から興味を抱いていた方も、最近興味を抱くようになった方も、今もそんなに関心がない方も、ぜひ「日本古来の世界観」に触れてみてほしいと思います。
繰り返しになりますが、古文は役に立たないものでもなければ無駄なものでもありません。たとえそこから得た知識を実際に生かす機会がなくとも、そこで触れた世界観や情感といったものは、この国で生きていく上で必ず必要なものになると思います。
今この記事をご覧になられている方の多くが、日本で暮らしている方だと思います。
せっかく日本で生きていくのなら、日本の心を知り、日本らしさを持って生きていってもいいじゃないですか。
少なくとも僕は日本が好きですし、もっともっといい国になっていってほしいと思います。国民のみなさんにもその想いがあるからこそ、元号も新たなものに生まれ変わり、日本中がそれを祝福したのだと思います。
そしてこれからのさらなる平和と発展を望むのであれば、「故きを温ねて新しきを知る」、この「温故知新」の心を持つことが大切だと感じています。
先を見るのももちろん大切ですが、たまには『万葉集』などの「故き」にも目を向けてみるのも良いものですよ(*‘ω‘ *)
それでは今回はこの辺で終わりにしたいと思います^^
ではでは、ご一読いただきありがとうございました(`・ω・´)!